その後

@ 叔父さん 叔母さん
ちょっと久しぶりに叔父さんと電話で話をしました

施設にいる叔母さんのところへ毎日お見舞いに行っているそうです
(入院そして施設へ入りもう2年が過ぎました)
叔父さんも80歳も越えて腰痛もちでもあり 気管支も弱く日増しに萎えていく
自分の体調にも不安と衰えを感じて情けないとぼやいておられました

そしてひとときでも我が家に帰ってみたいという叔母さん
お口は達者でも 一人では立つことも起きることも出来なくなって・・

日が延びた春の夕暮れ 叔父さんは 一人庭に座り込んで雑草採りに励み
このひとときが無心になれると・・
長年夕餉の支度に勤しんでいる妻の姿がだぶり 
特に夕方は家の中にはいられないそうです

数日前賑やかなツバメの囀りにふと見上げたら 目の前で旋回していたそうです
毎年 毎年やって来るツバメたち 今年もツバメたちは来た
女房も夢でもいいから 帰って来られたらどんなに喜ぶか・・
叔父さんと二人でまた また泣いてしまいました
           
「ツバメたちはここで巣立ち 帰るときは庭を何回も旋回して
お礼を言っているようにして帰っていくのよ♪・・」

元気な頃 叔母さんはそう話をしてくれました

今年もツバメがもう来た そのような時期になったのですね

叔母の願い 叔父の願い 私の願い そんな日が来ますように・・


A大震災その後
東南海地震
それは1944年(昭和19年)12月7日午後1時36分に起きました 
マグニチュード7.9と推定されています

この時私は6歳でした
今では考えられないほど遅い秋の採り入れの時期で
父母と学校の近くのたんぼ道をリヤカーで歩いてるとき
何事かと思われるごう音と  けたたましい悲鳴 もの凄い土煙をあげて
学校の校舎も一瞬にして全部壊われてしまいました
子供たちの死者も出ました

私の住む村でも川から東側の家はほとんど壊れ 川の西は半壊となりました
我が家は半壊でしたが住めないので 納屋で筵(むしろ)を寒風よけに掛けて
藁に潜って寝たり 竹藪に寝たりしました

そしてその翌年には終戦と(昭和20年)いう ダブルパンチを受けて
物資もなく 食べる物もなく すさびた世の中を味わいました
父母は 自給自足の生活に追われ 朝から夜まで田畑で働き続けて
子供の私たち(5人兄弟)を育ててくれました

今から15年前には「阪神大震災」(平成7年1月17日) マグニチュード7.3 が起きました

それと同じような大きい地震を私も味わった訳です
今もってこの地震の体験がトラウマとなって引きずっています   

”私たちだって地震の災害も そして物資もない戦争時の体験も受けたよ”・・って
言ってみたかったし ほんとうにそう思いました

でもでも 今回の東日本大震災は大違いです

問題にならない規模のダメージで言葉にならないほど胸が傷みます
震災後すでに一ヶ月余りも過ぎています

心が晴れることがなくて 外出の足もぱったり止まりましたが
世の中も節約ムードから 何かと脱却して明日へ歩むように変わってきました
自分も含めてやっとそのような気持ちになってきました

東日本大震災に遭われた方々には未だに先の見えない日々です
何も出来ない私たちは申し訳なく思いますが
普通に暮らせる日々に感謝しながら
明日へ向かって一歩でも進めたらいいなぁ・・と!

11.4.23
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